2017年01月06日
『風に濡れた女』を新宿武蔵野館1で再見して、こういう謎のコンテンツは好きだふじき★★★★(ネタバレ前提感想)
ネタバレ前提感想なので、鑑賞後にお読みください。また、非ネタバレ感想はこちらにあります。
▲ナイスじゃないペア。
五つ星評価で【★★★★間宮夕貴が何者かを考えるのが楽しい】
二回目。
一回目は「裸だ、裸だ、間宮夕貴のおっぱいツンとしてかっこいいな。中谷仁美かーいーな」と思ってるうちに映画が終わってしまい、話はよく分からなかった。なので、今回はリベンジマッチとして、間宮夕貴のおっぱいと中谷仁美のエッチイ可愛さを再確認しながら、どんな話かを注力しながら見た。で、こんな事じゃなかろうかと頭の中で囁く人がいたので、それに従って書きました。私がこれから書く事は世迷言ですが、こんな考え方もあると思ってもらえればいいです。
間宮夕貴自転車で登場。いきなり海に落ちる。海から出てくる。
そこに立ち合わせた男が主人公。男は文筆家で、女断ちをする為に山で暮らしている。
この女断ちをしてる主人公に昔、関係があったらしい女が訪ねてくる。
昔の女は男の本を換骨堕胎して演劇にしているようだ。漂うサブカル臭。
間宮夕貴が男とのSEXを拒否したため、男は女の助手を犯す。
舞台は森の中。野犬やマムシがいる、必ずしも住みやすくない場所。
熊と疑われる獣(=主)がいるが、それは動物園から脱走した虎らしい。
ラスト直前で、虎は捕縛された事が伝えられる。
その後のシーンで、男に女からの「イヌはあなたじゃないかしら」
とのメッセージが伝えられる中、虎らしき咆哮が画面に響く。
虎とは何なのか? イヌとは何を表わすか?
虎が「森の主」であるなら、その高みから侵されざる存在だろう。
その主が捕縛されたにも関わらず咆哮が響くのは、
捕まった虎と咆哮をあげた虎が異なる存在という事だ。
虎の咆哮が物理的な音ではなく、精神的な位置を表わす象徴なら、
最初の虎は森に住む男であり、最後の虎はその場にいない女である。
なるほど、女は最初から男に隷属などせず、王のように振る舞っていた。
男は女に立ち向かうが、徐々に自然に女の強さに打ち負けて、
「自分がもっとも強い者である」という優位を疑わざるを得なくなる。
彼は虎のように、もっとも強い孤高なもののように振る舞っていたが、
その実、彼が森にいる為には仲間の助けが必要であり、
それは群れで生活する犬特有の性質だ。
冒頭近く、彼は女に向かって「犬みたい」と表現する。
おそらく、これは「犬みたいに愛情欲しがりで擦り寄ってSEXしようとする奴」
という蔑みの言葉なのだ。だが、女のSEXはそんな生易しいものではなかった。
女は自分のSEXをそんな風に表現される事に我慢できなかった。
女のSEXはやって、やって、やりまくって、研ぎ澄まされた事により
芸術にまで達していたSEXだったのだ(笑)。
最終的に女は男とのSEXで男の森の家を壊し、
男は女を抱くだけのために森から出て町の家にまで出向く。
もう、そこには森の孤高の主の姿はなく、実に彼こそが
「犬みたいに愛情欲しがりで擦り寄ってSEXしようとする奴」になっている。
町の家は女が別の男からSEXで簒奪した物であり、
ここにいた男も女により優位からの追放を受けている。居場所も奪われている。
女はその際に自分のSEXを「芸術であるSEX」と表現している。
物語の中で、高い位置にいる者(少なくともそう見える者)は3人。
(1) 森に住む男
(2) 男の昔の女である劇団の女座長
(3) 町の喫茶店のマスター
彼等のいずれもが女とのSEXによって、その高い位置を奪われる。
つまり、芸術的なSEXの方が彼等の芸術的な活動や生活や信条よりも上なのである。
女は易々とその欺瞞を打ち砕く。
彼等が人である限り、どんなに高尚ぶったとしても最高位のSEXには勝てないと。
彼等が個々に持っているポリシーを彼女とのSEXが凌駕してしまう。
逆に物語の中で低い位置にいる者(少なくともそう見える者)は3組。
(4) 森に住む男への当てつけにSEXされるサーファー達
(5) 男の昔の女である劇団の女座長の下にいる劇団員
(6) 男の昔の女である劇団の女座長の下にいる助手とその新しい彼氏
(4),(5)の彼等にとってSEXは単にSEXである。
というより、SEXしたりされたりする事で失う物はない。
もともと彼等には失うようなポリシーがないのだ。
彼等にとってSEXは降ってくればラッキーみたいな物でしかない。
(6)の彼等は映画内で唯一、間宮夕貴とSEXしない二人なのだが、
助手の中谷仁美は、森の男に間宮夕貴の代わりに犯される。その代償に愛を求めるが、
森の男に取ってのSEXは相手と何かを共有する為の手段ではない。
単にプレイとしてのSEXにすぎない。だから拒否される。
勿論、間宮夕貴のSEXにも愛はないし、間宮夕貴と中谷仁美がSEXしても
何一つ溝は埋まらないのだが、これは単にジャンルが違うとしか言いようがない。
個人的には間宮夕貴と中谷仁美のSEXは見たかった。
(6)の彼等は究極や至高のSEXには無関係なまま、ただ愛を求めてSEXする。
間宮夕貴と彼等の間は平行線のまま、何ら交わったりしない。
それはそれで、とても幸せな事だと思う。
長々と書いているが、映画観てる最中に思ったのは
すんげ唐突に間宮夕貴が『2001年宇宙の旅』のモノリスみたいだな、という事。
呼ばれもせずに現われて、人類が次の過程に進む存在かどうか見極めようとする。
ただ、その判断基準が「種としてのうんちゃらかんちゃら」ではなく単にSEX。
やんごとなき人たち3人は落第する。
下々の人たち3組はお猿さんのままで満足である。
モノリスが去った後も、なべてこの世は事もなし。世界は変わったりしないのである。
という感じで幕が閉じる。
森の男が合格してしまい、いきなりスター・チャイルドなぞになってしまったら、
今世紀一二を争う珍作になってしまった事だろうけど。
スター・チャイルドなのにチンチンだけ立ってて名前が珍作。
いや、言わんでいい事言った。
【銭】
チケット屋で劇場鑑賞が6回可能である武蔵野興行の株主優待券を4500円でGET。うち1回分で鑑賞。
▼関連記事(他のロマンポルノ・リブートプロジェクト)。
・風に濡れた女(一回目)@死屍累々映画日記
・ホワイトリリー@死屍累々映画日記
・雌猫たち+アンチポルノ@死屍累々映画日記
▲ナイスじゃないペア。
五つ星評価で【★★★★間宮夕貴が何者かを考えるのが楽しい】
二回目。
一回目は「裸だ、裸だ、間宮夕貴のおっぱいツンとしてかっこいいな。中谷仁美かーいーな」と思ってるうちに映画が終わってしまい、話はよく分からなかった。なので、今回はリベンジマッチとして、間宮夕貴のおっぱいと中谷仁美のエッチイ可愛さを再確認しながら、どんな話かを注力しながら見た。で、こんな事じゃなかろうかと頭の中で囁く人がいたので、それに従って書きました。私がこれから書く事は世迷言ですが、こんな考え方もあると思ってもらえればいいです。
間宮夕貴自転車で登場。いきなり海に落ちる。海から出てくる。
そこに立ち合わせた男が主人公。男は文筆家で、女断ちをする為に山で暮らしている。
この女断ちをしてる主人公に昔、関係があったらしい女が訪ねてくる。
昔の女は男の本を換骨堕胎して演劇にしているようだ。漂うサブカル臭。
間宮夕貴が男とのSEXを拒否したため、男は女の助手を犯す。
舞台は森の中。野犬やマムシがいる、必ずしも住みやすくない場所。
熊と疑われる獣(=主)がいるが、それは動物園から脱走した虎らしい。
ラスト直前で、虎は捕縛された事が伝えられる。
その後のシーンで、男に女からの「イヌはあなたじゃないかしら」
とのメッセージが伝えられる中、虎らしき咆哮が画面に響く。
虎とは何なのか? イヌとは何を表わすか?
虎が「森の主」であるなら、その高みから侵されざる存在だろう。
その主が捕縛されたにも関わらず咆哮が響くのは、
捕まった虎と咆哮をあげた虎が異なる存在という事だ。
虎の咆哮が物理的な音ではなく、精神的な位置を表わす象徴なら、
最初の虎は森に住む男であり、最後の虎はその場にいない女である。
なるほど、女は最初から男に隷属などせず、王のように振る舞っていた。
男は女に立ち向かうが、徐々に自然に女の強さに打ち負けて、
「自分がもっとも強い者である」という優位を疑わざるを得なくなる。
彼は虎のように、もっとも強い孤高なもののように振る舞っていたが、
その実、彼が森にいる為には仲間の助けが必要であり、
それは群れで生活する犬特有の性質だ。
冒頭近く、彼は女に向かって「犬みたい」と表現する。
おそらく、これは「犬みたいに愛情欲しがりで擦り寄ってSEXしようとする奴」
という蔑みの言葉なのだ。だが、女のSEXはそんな生易しいものではなかった。
女は自分のSEXをそんな風に表現される事に我慢できなかった。
女のSEXはやって、やって、やりまくって、研ぎ澄まされた事により
芸術にまで達していたSEXだったのだ(笑)。
最終的に女は男とのSEXで男の森の家を壊し、
男は女を抱くだけのために森から出て町の家にまで出向く。
もう、そこには森の孤高の主の姿はなく、実に彼こそが
「犬みたいに愛情欲しがりで擦り寄ってSEXしようとする奴」になっている。
町の家は女が別の男からSEXで簒奪した物であり、
ここにいた男も女により優位からの追放を受けている。居場所も奪われている。
女はその際に自分のSEXを「芸術であるSEX」と表現している。
物語の中で、高い位置にいる者(少なくともそう見える者)は3人。
(1) 森に住む男
(2) 男の昔の女である劇団の女座長
(3) 町の喫茶店のマスター
彼等のいずれもが女とのSEXによって、その高い位置を奪われる。
つまり、芸術的なSEXの方が彼等の芸術的な活動や生活や信条よりも上なのである。
女は易々とその欺瞞を打ち砕く。
彼等が人である限り、どんなに高尚ぶったとしても最高位のSEXには勝てないと。
彼等が個々に持っているポリシーを彼女とのSEXが凌駕してしまう。
逆に物語の中で低い位置にいる者(少なくともそう見える者)は3組。
(4) 森に住む男への当てつけにSEXされるサーファー達
(5) 男の昔の女である劇団の女座長の下にいる劇団員
(6) 男の昔の女である劇団の女座長の下にいる助手とその新しい彼氏
(4),(5)の彼等にとってSEXは単にSEXである。
というより、SEXしたりされたりする事で失う物はない。
もともと彼等には失うようなポリシーがないのだ。
彼等にとってSEXは降ってくればラッキーみたいな物でしかない。
(6)の彼等は映画内で唯一、間宮夕貴とSEXしない二人なのだが、
助手の中谷仁美は、森の男に間宮夕貴の代わりに犯される。その代償に愛を求めるが、
森の男に取ってのSEXは相手と何かを共有する為の手段ではない。
単にプレイとしてのSEXにすぎない。だから拒否される。
勿論、間宮夕貴のSEXにも愛はないし、間宮夕貴と中谷仁美がSEXしても
何一つ溝は埋まらないのだが、これは単にジャンルが違うとしか言いようがない。
個人的には間宮夕貴と中谷仁美のSEXは見たかった。
(6)の彼等は究極や至高のSEXには無関係なまま、ただ愛を求めてSEXする。
間宮夕貴と彼等の間は平行線のまま、何ら交わったりしない。
それはそれで、とても幸せな事だと思う。
長々と書いているが、映画観てる最中に思ったのは
すんげ唐突に間宮夕貴が『2001年宇宙の旅』のモノリスみたいだな、という事。
呼ばれもせずに現われて、人類が次の過程に進む存在かどうか見極めようとする。
ただ、その判断基準が「種としてのうんちゃらかんちゃら」ではなく単にSEX。
やんごとなき人たち3人は落第する。
下々の人たち3組はお猿さんのままで満足である。
モノリスが去った後も、なべてこの世は事もなし。世界は変わったりしないのである。
という感じで幕が閉じる。
森の男が合格してしまい、いきなりスター・チャイルドなぞになってしまったら、
今世紀一二を争う珍作になってしまった事だろうけど。
スター・チャイルドなのにチンチンだけ立ってて名前が珍作。
いや、言わんでいい事言った。
【銭】
チケット屋で劇場鑑賞が6回可能である武蔵野興行の株主優待券を4500円でGET。うち1回分で鑑賞。
▼関連記事(他のロマンポルノ・リブートプロジェクト)。
・風に濡れた女(一回目)@死屍累々映画日記
・ホワイトリリー@死屍累々映画日記
・雌猫たち+アンチポルノ@死屍累々映画日記