野火
2015年10月04日
『野火(塚本版)』をユーロスペース1でリベンジして返り討ちに会う男ふじき★★★
五つ星評価で【★★★これはこれで大した物に違いないは違いない】
結論から言うと、私はこの映画が苦手である事を再認識した。
これは主観であり、感情の映画だ。
市川版が物語を語るために背景などを事細かに説明するのに対して、
塚本版はその場の空気を描写する。市川版が小説なら塚本版は詩だ。
そして、塚本の感情表現はアッパーだ。
戦場で普通の感情でいられる筈がない。
だから、普通じゃない感情で表現する。
確かにいきなり戦場に放り込まれたら「こんな感じ」かもしれない。
違うかもしれない。分からない。戦場に放り込まれた事がないから。
なので、他の人たちが「まるで戦場みたい」と言ってるのを聞きながら、
「塚本的な強い脅し」だな、とか不敬な事を考えてしまった。
何か、お化け屋敷に紛れ込んでしまった感じ。
後半、主人公は猿(人肉の比喩)を食う男たちに会う。
彼等はとてもごく普通の振舞いとして猿をつかまえて食おうとする。
そこに禁忌はない。そして、主人公にも禁忌は薄い。
もう、こうなったからにはしょうがない。そういう空気が漂う。
だから、塚本版では猿を食べる事に対する善悪が際立たない。
どちらも同じ罪の共犯者だから。
市川版では戦後いろいろと戦場の地獄が暴かれた結果が、
その制作された時代ではまだ咀嚼されていない(映画にいかされずにいる)。
戦場にいる多くの兵士ともども「猿を食べる事は大いなる禁忌」という
コンセンサスが成り立っている。
にも関わらず、
禁忌を犯してしまった男達は「猿」と言いきって、禁忌を誤魔化し、
禁忌を犯すくらいなら死を厭わない主人公は、禁忌に正々堂々と対峙する。
この葛藤が塚本版では薄い。
エンディングの戦後の悩む自分描写も、
深い話に見せようとするアリバイ作りに見えてしまった。
【銭】
ユーロスペースの会員割引で1200円。
▼関連記事。
・野火(市川版)@死屍累々映画日記
・野火(塚本版一回目)@死屍累々映画日記
結論から言うと、私はこの映画が苦手である事を再認識した。
これは主観であり、感情の映画だ。
市川版が物語を語るために背景などを事細かに説明するのに対して、
塚本版はその場の空気を描写する。市川版が小説なら塚本版は詩だ。
そして、塚本の感情表現はアッパーだ。
戦場で普通の感情でいられる筈がない。
だから、普通じゃない感情で表現する。
確かにいきなり戦場に放り込まれたら「こんな感じ」かもしれない。
違うかもしれない。分からない。戦場に放り込まれた事がないから。
なので、他の人たちが「まるで戦場みたい」と言ってるのを聞きながら、
「塚本的な強い脅し」だな、とか不敬な事を考えてしまった。
何か、お化け屋敷に紛れ込んでしまった感じ。
後半、主人公は猿(人肉の比喩)を食う男たちに会う。
彼等はとてもごく普通の振舞いとして猿をつかまえて食おうとする。
そこに禁忌はない。そして、主人公にも禁忌は薄い。
もう、こうなったからにはしょうがない。そういう空気が漂う。
だから、塚本版では猿を食べる事に対する善悪が際立たない。
どちらも同じ罪の共犯者だから。
市川版では戦後いろいろと戦場の地獄が暴かれた結果が、
その制作された時代ではまだ咀嚼されていない(映画にいかされずにいる)。
戦場にいる多くの兵士ともども「猿を食べる事は大いなる禁忌」という
コンセンサスが成り立っている。
にも関わらず、
禁忌を犯してしまった男達は「猿」と言いきって、禁忌を誤魔化し、
禁忌を犯すくらいなら死を厭わない主人公は、禁忌に正々堂々と対峙する。
この葛藤が塚本版では薄い。
エンディングの戦後の悩む自分描写も、
深い話に見せようとするアリバイ作りに見えてしまった。
【銭】
ユーロスペースの会員割引で1200円。
▼関連記事。
・野火(市川版)@死屍累々映画日記
・野火(塚本版一回目)@死屍累々映画日記
2015年08月09日
『野火(塚本版)』をユーロスペース2で観て、あっさり感想ふじき★★★
五つ星評価で【★★★これはこれで大した物に違いない】
結論から言うと、私は市川崑版の方が好きだ。
市川版は、物事の筋書きをはっきり書いていて物語として分かりやすい。
塚本晋也の今回の映画化は同じ話を描き、
同じストーリーを辿っているにもかかわらず、感覚的で私には分かりづらい。
「私には分かりづらい」と書いたのは、
こっちの方が向いてる人もいるに違いないからだ。
塚本版はイベントである。
戦場に放り込まれた各人が、映画の主役と同じ事を音と光で体験する。
主人公は極力、語らず、観客の黒子に徹する。
感じたり、考えたり、意見を述べたりするのは主人公ではない、観客なのだ。
だが、私は戦争を体験するように、主人公と一体化はしなかった。
それは市川版を見ていて、話の筋書きを意識出来てしまう分、
没頭感を持ちづらかったのかもしれない。
塚本版、市川版、どちらも戦争の地獄絵図を描いているのだが、
市川版の方が地獄がより陰惨に見えるから私は好きだ。
塚本版は主観的に捉えられた地獄。地獄は主人公が見聞きする体験談である。
市川版は客観的に捉えられた地獄。主人公が見聞した事も含めるが、
大局的に発生する殺戮を島単位で描く。
この映画の中の表現ではないが、
原爆爆発の瞬間、灼熱の中で燃えて焼け爛れる人物ただ一人に焦点を当てたのが塚本版。原爆とはどのような兵器で、被害の様相を何台ものカメラで多角的に収めたのが市川版。とちらがより病巣を深く描けるかと言うなら市川版だろう。「戦争で死ぬ」場合でも、個人単位に見れば「一人が殺される」事が一度にいっぱい起こるだけである。だから、塚本の描き方が間違えてるとは言えない。ただ、この描き方を選ぶと、どうしても「それはその人だけに起こった事」に見えてしまうという欠点も持ってしまう。この人はこんなひどい目に会ったが他の人はそうでないかもしれない。だから、他の人も同じか、それ以上ひどい目に会う事が示唆される市川版の方が私は怖い。
ただ、塚本オリジナルの効果的な映像、効果的な音楽は
「塚本」その物で脱帽せずにはいられない。
その効果を再確認する為に、とりあえずもう一回観たい。
【銭】
ユーロスペースの会員割引で1200円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・野火@ぴあ映画生活
▼関連記事。
・野火(市川版)@死屍累々映画日記
・野火(塚本版2回目)@死屍累々映画日記
結論から言うと、私は市川崑版の方が好きだ。
市川版は、物事の筋書きをはっきり書いていて物語として分かりやすい。
塚本晋也の今回の映画化は同じ話を描き、
同じストーリーを辿っているにもかかわらず、感覚的で私には分かりづらい。
「私には分かりづらい」と書いたのは、
こっちの方が向いてる人もいるに違いないからだ。
塚本版はイベントである。
戦場に放り込まれた各人が、映画の主役と同じ事を音と光で体験する。
主人公は極力、語らず、観客の黒子に徹する。
感じたり、考えたり、意見を述べたりするのは主人公ではない、観客なのだ。
だが、私は戦争を体験するように、主人公と一体化はしなかった。
それは市川版を見ていて、話の筋書きを意識出来てしまう分、
没頭感を持ちづらかったのかもしれない。
塚本版、市川版、どちらも戦争の地獄絵図を描いているのだが、
市川版の方が地獄がより陰惨に見えるから私は好きだ。
塚本版は主観的に捉えられた地獄。地獄は主人公が見聞きする体験談である。
市川版は客観的に捉えられた地獄。主人公が見聞した事も含めるが、
大局的に発生する殺戮を島単位で描く。
この映画の中の表現ではないが、
原爆爆発の瞬間、灼熱の中で燃えて焼け爛れる人物ただ一人に焦点を当てたのが塚本版。原爆とはどのような兵器で、被害の様相を何台ものカメラで多角的に収めたのが市川版。とちらがより病巣を深く描けるかと言うなら市川版だろう。「戦争で死ぬ」場合でも、個人単位に見れば「一人が殺される」事が一度にいっぱい起こるだけである。だから、塚本の描き方が間違えてるとは言えない。ただ、この描き方を選ぶと、どうしても「それはその人だけに起こった事」に見えてしまうという欠点も持ってしまう。この人はこんなひどい目に会ったが他の人はそうでないかもしれない。だから、他の人も同じか、それ以上ひどい目に会う事が示唆される市川版の方が私は怖い。
ただ、塚本オリジナルの効果的な映像、効果的な音楽は
「塚本」その物で脱帽せずにはいられない。
その効果を再確認する為に、とりあえずもう一回観たい。
【銭】
ユーロスペースの会員割引で1200円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・野火@ぴあ映画生活
▼関連記事。
・野火(市川版)@死屍累々映画日記
・野火(塚本版2回目)@死屍累々映画日記