ディーパンの闘い

2016年06月11日

『ディーパンの闘い』『サウルの息子』をギンレイホールで観て、世に戦いの種は尽きまじふじき★★★,★★★

なんか重いの二本立て。

◆『ディーパンの闘い』
五つ星評価で【★★★しまった。パンティーの戦いじゃないのか】
これから言う事を若い人は分からないかもしれないし、分かったからと言っても共感しえないだろう。かく言うこれからそれを言おうとしている私自身が本当にそれはどうかなと思っている節すらあるのだ。

主人公ディーパンは丹古母鬼馬二さんのようだった。
一見ならず者のようだが、別に普通の人だ。
年相応に落ち着いて昔のように蛮勇を振るう事もない。

だが、争いの方が彼を追いかけてくる。
何となく丹古母鬼馬二さんで間違えてない。
妻はイライラさせ役の上手い大竹しのぶ(すげえ姉さんになってまう)、
子供は芦田愛菜あたりで日本版をリメイクするけ。


◆『サウルの息子』
五つ星評価で【★★★サウナの息子ではないのだが、手元にしか焦点の合わない映像はまるでサウナにいるような息苦しさを感じる】
ナチスのユダヤ人迫害の物凄さは大量虐殺を工場労働ペースで行なった事だ。まるで納期に追われるが如く一分一秒を惜しんで殺されていくユダヤ人をこれほどシステマティックに捉えた映画は今までになかった。このペースが現実に即したものか、メンタルな心象風景であるかは当事者しか分からないし、映画だからそのどちらでもいいと思っている。この狂った状況で正しい事を貫こうとする主人公の狂気が際立つ。
主人公サウルは矛盾している。息子の死に直面し、息子をユダヤの教義に合う正しい埋葬を行おうと収容所内を西走東本する。正しい埋葬を行わないと最後の審判で復活の対象とならないのだ。だが、彼の非常識な行為は彼の周囲の人間の生命を脅かすし、彼が日常行っているナチスの大量虐殺の幇助は最後の審判で復活の対象とならない人間を大量に作成している事に他ならない。
映画は殊更にサウルに肩入れするでもなく、ダメ出しするでもなく、ただ近くにいる。映画は徹頭徹尾「傍観者」だ。それはおそらく観客がその場にいたとしても「傍観者」たりえてしまうだろうという無力感の現れのようでさえある。

PS 「の息子」と言えば、名画座にて『ゴジラの息子』を見たけど、
 流石に『サウルの息子』とは全然違う映画だった。そらそうか。


【銭】
ギンレイホール、会員証で入場。

▼作品詳細などはこちらでいいかな
ディーパンの闘い@ぴあ映画生活
サウルの息子@ぴあ映画生活
▼この記事から次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です。
ディーパンの闘い@映画的・絵画的・音楽的

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